1994年に石川県金沢市に生まれる。
京都芸術大学日本画コースを卒業後、そのまま同大学の修士課程へと進み修了。
現在は京都を拠点に活動中。
岩絵具、墨、膠といった日本画で用いられる画材を中心に制作。
あなたは自身や世界が存在するという不思議を、幼き日に、一度も考えたことはありませんか?
私は幼き日に上手く言語化することの出来ないこの不思議を抱き、多くの人間が成長するにつれて忘れていくであろうこの疑問を抱え続けて今に至るまで生きてきました。この疑問は膨らむことも萎むこともなく、常に私の傍らにありました。
私は“存在する”ということがいったいどういうことなのか、それをコンセプトに制作している。
COVID-19により現在の社会はそれ以前とは大きく変容した。その変容の部分としてあらゆる場面において社会は効率化され、また、既存の技術で効率化が出来るということを我々は身に染みて知ることになった。
しかし、我々の多くはその既存の技術によって様々な場面を効率化出来るだろうということは既に知っていた様に思う。では何故多くの場所でその効率化が成されていなかったかといえば、単純にそのきっかけ(機会)がなかったからである。裏を返せば、世界はきっかけ次第で既存のあるいは最新の技術によって大きく変わりうるのだ。
近年の量子力学、バイオテクノロジーやAI技術等の最新の科学は、互いの領域を飛び越えクロスオーバーし加速度的に急速な発展を遂げている。我々がこれまでSFだと思っていた事の多くがSFではなくなって来ており、場合によっては既にそのSFを超えているものだってあるだろう。
社会の様相がガラリと全く変わってしまう可能性は常にあるし、COVID-19による変化はこれからの変化に比べれば小さなものに過ぎないだろうし、今が変化という大きなうねり中にあるのだとすればそれは小さな飛沫のようなものだ。
バイオテクノロジーの発展により“不老”という人類が太古から夢に見てきたものでさえも今は既に手に届くところまで来ている。もし、“不老”が実現したならば我々の持つ生や死に対する価値観や考え方、また、社会システムも想像出来ないほど大きく変わるだろう事は想像に難くない。ならばこそその“不老”というものがどういうものなのかを今の内に考えて備えておくことは、決して馬鹿げたことではない。
ところで、私自身という“意識”や“世界”の正体というものは古代からの哲学的命題だが、最近では解き明かすべきブラックボックスとして科学の世界で盛んに研究されている分野の一つでもある。肉体の機械化やネットワークとの接続による身体及び意識の拡張、AIの自我の有無について等の事柄は“意識”の範囲、所在、成り立ちが常に問題となっている。また、“世界”のそれについても量子力学等にとって重要な問題だ。
おそらくそれほど遠くない未来において、“意識”や“世界”の在処というのは社会にとっても個人にとっても大事になってくるだろう。そうなる前にこれらのことについて考えることもまた、決して損になることではないはずである。
そして、“意識”も“世界”も詰まるところ、“存在する”とはどういうことなのかという問題に行き当たるのではないかと私は考えている。
“存在する”という言葉はとても曖昧な表現であり、曖昧な状態なのではないかと思う。
例えば一個のドーナツを想像してみてほしい。そこには穴が空いているが、果たしてそこに穴は在るのだろうか。在るとするならばそのドーナツの生地を食した時、その穴は一体どこに消えてしまうのだろうか。また、一個のリンゴを想像してみてほしい。その周りには天井も壁も床もなくただ一つ浮いているリンゴのみ。リンゴの外にはただただ広大な空間が広がっている。だがしかし、この空間というものもまた本当にそこに在るのだろうか。もしその一つのリンゴが消失したならば果たしてそこに空間と呼べるものは在るのだろうか。ドーナツの穴もリンゴの周りの空間も、ドーナツやリンゴという対象があって初めて我々が持つ認識の中に関係性として登場する。
我々が日常的に、何も疑問抱かずに在ると思っている事物(例えば家族、仕事、食べ物、言葉……etc)の多くがこの穴や空間といったものと同様に認識の中に立ち現れているものだ。それらのもののことを概念的なもの(私はこれら全ては関係性のことだと考えている)と言い換えていいかもしれない。
しかし、概念的なものではなく物質として確かに在ると思えるようなドーナツやリンゴであろうと、それらを構成する最小単位の量子力学的に言えば、それらは出来事によって構成されているのだという。出来事とは関係性のことだ。
つまり私を取り巻く“世界”とは関係性のことなのだろうか。
では、この私という“意識”(ちなみにここでいう“意識”とはここにいるこの“私”のことであって、自由意志の有無などについては関係のないものとする)についてはどうか。実感として“世界”を観測している“この私”は確実にここに在るが、この実感すらも自身以外の外界との関係性として発生するものなのかもしれない。ただ、それらがただの関係性だとして、それらをただの幻だと、“存在していない”と断ずる事は出来ない。何故なら“この私”という存在は確かにここにいるのだから。「我思う、故に我ありであり」である。
では、その関係性とはいったい何処に在るのか、何処から発生しているのかというのは当然として湧いてくる疑問である。私はこの関係性が立ち現れる場こそが“無”であり、“無”とは様々な状態が同時に重ね合わさっている状態のことなのではないかと思う。関係性とは常に揺れ動き変化するもので、認識の仕方が変わるだけでもその関係の仕方は変化してしまう揺らぎそのもの。
“存在する”とはつまり“関係性”のことで、“関係性”とはつまり“無”に現れる揺らぎのことで、“存在する”とはこのとても不安定で曖昧な状態のことなのかもしれない。
2018年 京都造形芸術大学 大学院修士課程 ペインティング領域 修了
2018年 京都造形芸術大学 大学院 修了展「優秀賞」受賞
2018年 京都造形芸術大学「シュレディガーの猫展」出展 東京都美術館/東京
2018年 京都造形芸術大学「画心展2018-Selection Vol 15」 優秀賞 受賞 佐藤美術館/東京
2019年「ZEN展」優秀賞 受賞 東京都美術館/東京都
2020年 Artistsʼ Fair Kyoto 2020 入選 京都文化博物館/京都
2020年 IAG AWARDS 2020 入選 東京芸術劇場/東京
2020年 ANKNOWN ASIA 2020 ONLNE レビュアー賞 受賞